『どうする家康』ラスボス・淀殿! なぜか「悪女」と言われる“不憫すぎる理由”とは?
日本史あやしい話21
■淀殿を「淫婦悪女」として描いた江戸時代の読本
元凶として考えられるのが、江戸時代後期に出版された絵本読本『絵本太閤記』である。作者は、丹波屋西左衛門こと武内確斎(たけうちかくさい)で、読本作家として人気を博した人物。作画は、浮世絵師の岡田玉山で、のちの葛飾北斎や歌川国芳らにも大きな影響を与えた絵本挿絵の第一人者であった。
両名の手になるこの書は秀吉の一代記であるが、その七篇巻之十二に記された「淀君行状」に、淀君こと淀殿の「淫婦悪女」ぶりが、事細かに記されているのだ。
そこでは、容貌の衰えに悩む淀君が、明国から来朝した僧に相談したところ、「金龍の法」なる怪しげなる祈祷を勧められたという。どういうものかというと、まず淀君の内股の肉を切り取ることから始まる。
これを富士山山頂に潜む大蛇に与えて食させた上で、その肉を切り取って持ち帰り、淀君の内股の傷口にあてがうというものであった。と、たちまち、淀君の容色が回復したというからビックリ。ただし、容姿は若返って良くなったものの、反面、嫉妬心が深まったというから、性格の方は悪化したと見るべきか。
この「淀君行状」をもとにして描かれた伊丹屋善兵衛(前川来太)著の読本『唐土の吉野』では、さらにひどい書き様であった。その後の淀君が、「淫心頻りに生じて制止難く」なったというばかりか、「仕ゆる少年、内寵を蒙る者、甚だ多し」とまでいう。端的にいえば、「男漁りに精を出した」ということか。
この両書が人気を博したことから、その悪女ぶりが言い広められた。それが、淀殿悪女伝説の始まりであった。秀頼の産まれた頃の秀吉の年齢が57歳と高齢であったことから鑑みて、実は秀頼の実の父は別人(大野治長説あるいは石田三成説も)だったと、まことしやかに語られるようになったのも、こんな経緯が後押ししたからである。
もちろん、読本ゆえに面白おかしく書き記したことはいうまでもなく、史実とはとても思えない内容である。にもかかわらず、これが半ば信じられたばかりに、今日に至るまで、彼女が「日本三大悪女」の一人とまで蔑み続けられてきたというのは納得できない。不憫としか言いようがないのだ。彼女の名誉が回復されることを願うばかりである。
・画像……淀君(市川舛若、和睦論難波戦記)東京都立図書館(歴史人編集部にてトリミング加工)
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